とあるキャッチコピー
先日、とあるプロモーションで「〜から世界へ」(〜の中は地名)と言うものを見ました。このキャッチコピー、私が10年前に地域おこしに使って以来「鉄板」のキャッチコピーであったのですが、改めて見るとかなり致命的に「アウト」なキャッチであると思ってしまいました。
スポンサーリンクその理由は「誰が行うプロモーションか?」ということに尽きると思います。残念ながらこのキャッチコピーを使っていたのはアイドルの方です。つまりは目的が自分たちの「PR」自分たちが世界へ行くというのであればその応援を行う人たちは「可愛いから」という理由や「地元が同じ」くらいの重要度しか感じません。
誰かのために
地元のPRを世界に向けて行うとなれば少し事情が異なりますが、予算的な問題もあり簡単にはできません。それを踏まえて「〜を世界へ」と使えば、地元のためにお金もない、経験もない子達が頑張っていると感じ地元民でも応援したいと思う人は増えることでしょう。
スポンサーリンクほんのわずかな差ではありますが見る人からすれば伝わってしまうものは多々あります。同様に「美味しい」という言葉や「世界初」とか「日本初」とかも同じですね。どこが「初」なのか?なぜ「初」なのか?それを考えずに言葉尻で捉えると全くもって受け入れてもらえないリスクを秘めています。
古木を伐採すると言う愚行
昨今、樹齢150年の木を切り倒してツリーにしたアーティストがおりましたが、自然環境の破壊を徹底的に叩かれた結果「後で神社の鳥居にする」と発表、消火活動に余念がありませんが所詮後出しジャンケンには変わりなく、背後に広告代理店のようなプロモーターの存在を感じないではいられません。昨今、鳥居が木である必要はなく石の鳥居、金属で周りを覆われた鳥居など様々な鳥居が増えています。それを「神様」を引き合いに出せば話が収まるであろうという考えは思考省略も甚だしく、その鳥居を寄進される神社も一歩間違えば永遠に「神の社でありながら自然という最も偉大な神を破壊した神社」として名前を残すことになりかねません。
大義名分をこじつける
なぜこんなことが当たり前の世の中になってしまったのかといえばすべて「大義名分」です。この言葉が闊歩したのは中国の「三国志」の時代です。大義名分があれば隣国を攻め滅ぼしてもいい、犠牲になるのはいつも民人であることは百も承知なのに覇権を巡って国民を散々巻き添えにして壮大な戦いを繰り広げてしまったことにあります。現代でも大義名分があれば自然破壊も人権蹂躙も構わないと言わんばかりの世界に人々は辟易しているはずなのです。
単なる言葉尻ではない、本質が問えるキャッチコピーはふるさとの活性化に必須であると思います。
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